成り立ち

面白いことに、セーフキャストが実際にこの活動を始めたのはこの日です、という決定的な時期はありません。それは、子どもがスイッチを入れることなく大人になるのと同じようなもので、セーフキャストは友人知人たちの会話や提案から徐々に組織へと成長をしていったからです。では、最初の頃に戻ってみましょう。

2011年3月11日、マグニチュード9.0の地震が日本を襲い、巨大な津波と崩壊した福島第一原発事故を引き起こしました。このとき、ロサンゼルスにいたショーン・ボナーとボストン、ドバイ、東京間を行き来していたジョイ・イトウ、東京のピーター・フランケンとでほぼ同時にメールのやりとりを始めました。この後いく日間かは、話は互いの友達や家族の安否についてでしたが、やがて、ガイガーカウンター(放射線計測器)を手に入れて、自分達の住んでいる場所の安全性を確かめたいというものに変わっていきました。市販で売られているガイガーカウンターはあっという間に売り切れていましたので、話は買うことから、どうやって作るかということに変わっていきました。そして、どのようにデバイス(機器)を配布しようかというふうに話が膨らんでいったのです。

新しい問題が上がるたびに、この3人のネットワークの中から、その問題に詳しく、力も持っているという人が紹介され、加えられていきました。ジョイはハワイにいたインターナショナル・メドコム社の社長であるダン・サイスを紹介しました。同社はハイクオリティのガイガーカウンターを製作販売しています。ショーンは東京のハッカースペースの一人であるアキバ(ニックネーム)を、放射線計測器を一から作るという議論に加えました。シンガポールに住むバニー・ホアンは新しい機械のデザインについて話し合う段階で加えられました。ボストンとシアトルを拠点とするレイ・オジーはデータをどう見るかという疑問が起こったときに加えられました。

その翌週、ノース・キャロライナ(米国)のアーロン・フスレージがジョイと連絡をとり、ポートランド(米国)のマルセリーノ・アルバレズを紹介しました。マルセリーノはアンコークド・スタジオ(Uncorked Stuidios)というポートランドではウェブ・モバイルショップの草分けで、RDTN.orgというサイトの運営をしていました。このサイトは最初に放射線データを一般の人達から集めて発表するサイトとなりました。アイデアとリソースはシェアされ、そこから明らかな相乗効果が生み出されました。有効なデータは地図に反映され、足りない部分のデータは明らかになり、その地域に機器を提供してデータを集めるというのが明らかな次の方向となりました。そして、連絡はそれまでのメールからスカイプでの会話に発展し、チャットルームはいつでも活発で、プロジェクトの本部となっていきました。

その何ヶ月か前に、ジョイ・イトウとショーン・ボナーは毎年東京で開催される「NewContext Conference」のため、デジタル・ガレージで一緒に働き始めていました。しかし、放射線汚染の程度がまったくわからず、しかも非常に高いと考えられていたため、このイベントを計画しなおすことにしました。新しい技術やスタートアップに焦点をあてるより、地震時の危機管理や復興をトピックにしようとなりました。このイベントはチーム全体が初めて実際に顔を合わせる場となりました。また、この場がその後、多くのセーフキャストのボランティアを産む場ともなったのです。

地震から一ヶ月とちょっとの4月15日、ダン、ピーター、アキバ、バニー、ショーン、ジョイが初めて一同に会しました。その週末、アーロン、デビッド・イワルド(アンコークド・スタジオの代表として来日、後にセーフキャストのロゴのデザイナーとなる)、レイ・オジー、慶応大学のケイ・ウエハラとキャサリーナ・マラケ、東京ハッカースペースのカリン・コズハロフ、ロビン・シェイブラーが集まりました。

何時間も何時間もかけて、次の段階の方向性についてとことん話し合いました。この会議は多くの意味でターニングポイントとなりました。レイ・オジーが、車にガイガーカウンターを紐で吊り下げて瞬時にログを計測するというアイデアを思いつきました。これが翌週、東京ハッカースペースで、アキバ、ロビン、ピーター、スティーブ・クリスティー、マウリシオ・コルデロがデザインしたbGeigieとなったのです。私たちはデータを収集することに専念すると方向性を定め、新たなブランドは、日本でも世界でもそのときに行っていたこととその後も行うであろうことを説明する必要があると結論づけました。そしてそのグループを「セーフキャスト」と呼ぶことにしました。これはレイ・オジーが提供してくれたドメイン・ネームに関連した名前でした。

キックスターターのキャンペーンでは十分な資金を得ることができ、装備を購入するための多くの個人的な募金もありました。東京でのNCCの週は、私たちの努力が結束し、使命を与えられました。この後数ヶ月にわたり、私たちの資金は安定していましたし、さらに多くのボランティアをリクルートすることもでき、どの団体よりも多くの計測値を公表することができるようになったのです。